帽子とノスタルジックなアジア雑貨のお店 ドーナッツトーキング
えっちらおっちら自分動力(足踏みミシン)で手元に残った端布をツギハギする日々です。
ええことしたいんとちゃうくって
(勿論ええことはしたいし、できればええ人と思われたいという面の皮の厚さも・・・否めなーい)
捨てるのんもったいないなぁ、
この生地つくった人とか織る機械つくった人とか綿つくってる人とかいてはるしな
みんなサラリーの為に働いてはるのもほんまやけど
「ぺーいっ」って捨てるためにつくってはるんちゃうやろしな、
なんぞ自分を楽しませたり、
人のちょっとは役にたつようにまだ使えるんちゃうんのん
というぐずぐずとした想像力の果てにできるもの。できたもの。
どないなんやろうなぁ、この仕上がり。
わたしはかわいらしくでけたと思うけど、
しみったれてるっちゃ、しみったれてる。
電気つこてへんとはいえなぁ・・・。
繊維が少ないエネルギーで必ずリサイクルされる環境が整っていれば
こうゆう感じのものはつくらへんなぁ。
とこれまたぐずぐず考える。
ぐずぐず想像する。
こないだ電車のなかで
「それってフィクションやろ?」って連れの人が持っている本を指差している男性がいて。
「うん、けっこう面白いよ」ってその連れの人が言葉を返したあと
その男性は「フィクションって現実ちゃうやろー、興味わかへんわ。ほんまとちゃうし」
って言っていて、
わたしは衝撃をうけて動揺したのですが。
そしてまだちょっと動揺して、もやもやしてる。
本の趣味だけの話なんかなーって。
創造された、つくられた話にも「ほんま」あるで。
ノンフィクションのなかにも語り手・書き手が語る「非現実」「うそ」あるで。
それは想像したらわかるんちゃうんかぁって。
「ほんま」ってやっぱり難しいわぁって思ったけど、
できるだけ自分なりの「ほんま」獲得を諦めないでおこう
というところに今落ち着いてるのですが・・・。
で、結局は想像力とそれを続けるためのユーモアやなと。
J・レノンはimagineとゆうて想像をうながしてるし、
わたしのすきな作家(ジョナサン・サフラン・フォア)は
「ユーモアだけが悲しい話を真実として伝えられる」ってゆってたし、
ともだちが
「想像するってゆうのは、ほっこりワードでゆったら”思いやり”ゆうことや!」
ってゆってたなぁ。
ま、なんにしろ面白おかしくすごしながら、
ぐずぐずとでも想像を続けるゆうことですな。
doughnut talking
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